今年1月の終わりに、ずっと子供の頃から一緒に住んでいた祖母を亡くしました。享年89歳でした。お坊さんのお話では、享年というのは数え年で言うそうです。祖母は3月に89歳の誕生日を迎える予定でしたが、残念ながら88歳で逝きました。
祖母は、戦後とても貧乏をしながら苦労して父達4人の子供を育てました。夫であった祖父は、お酒が好きで短気、「女は口答えするな」という昔の男でした。
そんな祖母は、とにかく倹約を第一とし、趣味もなく、オシャレも大してせず、地味で堅実で心配性な人でした。良き妻、良き母であったと思います。
でも、嫁姑問題は形は様々ながら、どのお宅でもありますように、嫁である私の母は、若い頃はそれなりに悩み、苦労したようです。
例えば、祖母は水を最小限に使う人で、無駄遣いしないことはとても良いのですが、お皿の裏側はべったべた、ということが多かったり、ぼろぼろの古タオルやシーツを縫い直したヘンテコなエプロンをして外を歩いたり、母や私にしてみれば、「もう少し何とかならないの?」と言いたくなってしまうところもありました。
若い頃母が苦労したことを知っている私は、つい母の味方をしてしまうし、身内の良くないところで、ついずけずけと祖母にものを言うことも多く、私はあまり可愛くない孫だったと思います。
祖母はお正月まで元気でした。おじやおば、私のいとこ達が集まり、祖母は子と孫とひ孫に囲まれ、いつも通りの正月を迎えました。
ところが、同じ月の半ば、急に体調を崩し、入院。8日の後、お空へ行ってしまいました。
身内の死ですから、悲しいに決まっていますが、自分で思っていた以上に悲しくて困りました。正直、「こんな仕事しながら、自分のおばあちゃんには何もしてあげられなかった」と妙な罪悪感を感じたり、夕食のテーブルを見て、「あれ?おばあちゃん、何でいないのかな?」と不思議な気持ちになったり、「人って、あんなにあっさり死んじゃうんだ」とがっかりしたり。
祖母が入院して、「助からない可能性が高い」と分かり、急遽夜勤を交代してもらい、病院にそのまま母とおばと泊り込んだとき、私は母に言いました。
「おばあちゃん、もしホントにこのまま死んじゃったらさ、おばあちゃんの一生って、幸せだったかな?おばあちゃんにしか分からないことだけど、どうなんだろね」と。
祖母が亡くなるまでの間、病室には子と孫とひ孫が毎日毎日代わる代わる訪れては、「おばあちゃん」と呼びかけていました。
祖母が果たして旅立つ瞬間、どんな思いでいたのか私には分かりません。ただ、祖母がひとつ私に教えてくれたのは、「死ぬ時に悔いのないように生きる」ということです。失敗もある。悲しみも怒りもある。でも、懸命に生きる。欠点があっても、かっこ悪くても、真面目に生きる。もがいて、あがいて、生きる。
祖母が最後にくれた私へのお年玉で、お小遣いで、教えであったと思います。