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【わたしがTさんの好きなところ―とちの実のやわらかな心の呼吸―】   ぶなの実 佐久間

2010年08月03日 | ぶなの実

Tさんは、だいぶ以前は「のんびり家」に入居されていた。その頃の私は、のんびり家のすぐ近くで、同じ文京区にある「お寺のよこ」という事業所に勤務していた。だから、お寺のよこの利用者と一緒にのんびり家を訪問したときに少し話しをしたり、時たま、路上で買い物や散歩に出ているTさんに出会ったりしていた。多くの思い出はないのだが、ユックリ話し、穏やかな表情の方という記憶はある。
私は、去年の6月にのんびり家から異動となり、とちの実にやってきた。Tさんは、春先に、健康を損ねて入院したのちに、経管栄養のための手術を終えて、とちの実にもどってきていた。食べ物を口から食べられないということ、口から食べることが命とりになる危険性があるということ、栄養剤を人工のチューブで胃に直接流し入れるということ。
最近は、心臓の手術も、血管に沿って細いチューブを心臓まで入れておこなってしまうという。考えれば、考えるほど、体がむず痒くなる。考えすぎると、恐ろしさに感覚は凍りついてしまい、理解は不可能になってしまうこともある。
日常的な想像のはるか先にある静かな日常だ。
未曾有の長寿社会、高度な医療技術の一般化、介護保険制度の社会的浸透、職業的介護従事者の広汎化、そしてそれらを支える社会的な冨の蓄積、どれを失くしてもこのあらたな日常は来なかった。そういう意味では、太くもない人類の歴史の、そのさらに気を失いそうなほど細い糸がこの日常を支えている。
Tさんは、喋らない。時として何日おきかに、「うーん。うーん」と、一息が続く限りに長いうなりを5分ほど繰り返す。苦しそうだ。長いうなりなものだから、聞いている職員も息が少し苦しくなる。「何が苦しいのかな」と考える。
大腸が便を送るために激しく蠕動をして痛むのか?たしか激しい頭痛のともなうことが人によってある既往歴があったから、の可能性はないだろうか?それとも唾が口の中に溜まってしまい飲み込むことが苦痛なのでは?いろいろ考えるが結論など出るはずもないのだが・・・・。ひとしきりに顔を紅潮させて、力一杯のうなりが治まると、穏やかな表情と静かな呼吸のTさんにもどる。何もできなかった私は、ほっとして気持ちが自分にもどる。
Tさんの日常に比して、私たちの日常は明らかに過剰だ。
私たちは、外界からの刺激が緩まると、現実との繋がりが見失われてしまったかのようになる。政治の世界までが「劇場」でなければ成立しない状況は、政治家と非政治家の関係がなにも生み出さないものになりかねないということだと思う。空虚さと過剰さとは同じものに他ならず、そのことに巻き込まれると、ますます巻き込まれていく。
Tさんは、異性へのときめきを表さない。食べる喜びもなく、わけあって食べる喜びもない。誰かと出会っていくために自分と周りに気をつかうこともない。動くのもほんのちょっとだけ。だったらきっと心も体も硬くなるはずだ。
だけれども、Tさんの体はとてもやわらかい。とても柔らかく、少しの緊張もなく介護の手にゆだねている。これはたいへん上級の作法だと気付く(作法などなくともそれはそれでよいのだが)。だから、私たちは、Tさんの体にふれるとほっとする。緊張を強いられずに「しっかりしないと」と思う。なのに、このやわらかさは、病理学の目から見れば、もっとも原始的な幾重にも守られている生体反応としての筋肉を作用させる中枢神経系のある部分がはたらかなくなっているという深刻な状態を表している。
Tさんは、目をつむっている。但し、時たま5分くらい目をあける。その、世界と関わろうとする最小の意思は、私たちがぼーっとしているときよりもしっかりした目つきなものだから、「まるで何かが見えているみたいだ」と思う。黒く澄んだ瞳の眼には、小さく世界の像が写っている。だが何も見えていない。顔を近づけすぎても、手をかざしても、まぶたは動かず、眼球も動かない。そして、また目をつむってしまう。
どうやら私たちは、Tさんの日常のなかに、ものすごい力で引き込まれては、ものすごい力でそとに出てくるという確かで無駄でもない心の呼吸を繰り返しているようなのだ。

15:37 | Posted by admin