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【「来たるべきとき、来たるべきひと」…迎えるときの言葉について…】   ぶなの実A 佐久間 

2012年05月10日 | ぶなの実::ぶなの実A

人ごみの中にいる未知の人からはじめて発せられた言葉が、「あなたが来るのはわかっていました」というものだったら、誰でも驚かされるだろう。面識もないながら、遠いとき(=ひさしぶり)のように、ずいぶん遠いところからのように、その言葉が感じられた。
最寄りの駅に、鈴(りん)を鳴らしながら、駅頭にたつ雲水すがたの男性だ。托鉢に小銭を入れたことへの返礼なのだろうその言葉を、あたまのなかで繰り返しながら、「そんなはずはなかろうが」とおもったしばしあとに「もしや…」と思った。托鉢への布施という「偶然」へと関心を向けたつもりの行動は、「全く『自分ひとりの気分』でそうしたかった」といいたいという、その自分でも気づいていない自分のこころをすでに見透したように、「既知のものだ」と置き換えられたわけだ。
禅問答ならば、「疑問=問い」への対極にある「然り(しかり)」という「応答」か。
だが、よい言葉だと思った。そして、今のこころに遠くてもっとも近い言葉だ。

今になって理解できたのだが、前回の「どっこいしょ」では、お年寄りが、グループホームに迎えられた側としての、入居を理解していただくこころのイメージを、言葉に表すとどのように考えるか?という妄想と思い込みを記述した。
今回は、それと対照的に位置するもので、グループホームに迎える側としてのスタッフの、こころをイメージした場合を、言葉で表すとどのように考えるか?という妄想と思い込みを記述したいと思った。というのは、利用者にかける言葉が、「認知症を患っており、生活を営むのに支障があり、何らかの支援や介護が必要な状態にある」から「ここにいるのですよ。私たちと出会ったのですよ」という説明であってもいいのであるが、それではこれまでの経験上、こころに届いて「はい。そうなんですか」とはいかないからだ。むしろ「じゃあ、わたしはダメなんですね」となる。
言うまでもなく。グループホームに入居されるお年寄りは、家族や地域の知人側から見れば、面倒が見られなくなったり心配が絶えない状況にある。本人の側もなんだか思ったことが実行できなくて困ったり、社会とのつながりが急速に少なくなったり、関わるひとがどんどん元気がなくなり困惑した目になり、やがて縁遠くなったり、親しかったそのひとに叱られたりといった、訳のわからない嫌なことやトラブルが日常的になっている。お年寄りは、すでにかなり心理的にダメージを受けているのである。そのうえで、全く知らないホームの人達と、知らない場所で、暮らし始めるのである。ここだけみると、入居で、更なるパンチでW(ダブル)のダメージを受けかねない。が、そうならないようにするのが私たちスタッフの腕の見せ所なのだ。

そこで、冒頭の言葉「あなたが来るのはわかっていました」が生きてくる。言葉を敷衍(ふえん)すると、「ここでは心配することないですよ」「あなたのようなひとが来てくれてよかった」「ちょうどいいときに来たね」というところからの言葉である。そこのところを最大に表現すべきだ。これは、真実の言葉だ。例えば、認知症ではないピンシャンしたお年寄りが、毎日きて泊っていったら私たちスタッフは、本当に困ってしまう。三日くらいは、いい顔しても、一週間後は、顔が引きつるほど困惑してしまう。「家族が心配していますよ」などと、認知症のお年寄りには決して言わない言葉を言ってしまうか、さもなくば、「ここに長くいる人は皆面接試験受けて合格しています。あなたも試験を受けていただきます」などと意地悪を言うかもしれない。
入居すると、認知症のお年寄りは、いままでどんどん失っていくものばかりに追い詰められていたのだが、ここでは得るものは少ないかもしれないが確かにあり、失い続けるばかりではない。何より、来ても「待ってました」とばかり歓迎されることがわかる。そのことは約束だ。私だって、そのような言葉は、言われるたびに少し元気が出てくるだろうし言われたいのだが、なかなか言ってもらえない。
 
利用者の不安な気持ちをどっぷりと湛(たた)え、関わるひとびとの気持ちが移り変わっていくように、沢山の気持ちを湛えた水鏡のように、静かなそっけない言葉で、この出会いが偶然ではない結びつきを持っていることを「確り(しっかり)」と「然り(しかり)」と伝え、感じていただけるようにしたいものである。

08:55 | Posted by admin